2012年8月9日木曜日

『消えた少年たち』読了

消えた少年たち (Hayakawa Novels) 消えた少年たち〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)

オースン・スコット・カード(著)
早川書房(刊)

--あらすじ--
フレッチャー一家は、インディアナのヴィゴアからノースカロライナのストゥベンへと、新天地を求めて引っ越してきた。フレッチャー家の三人の子供のなかで、長男のスティーヴィはこの引っ越しにいちばんショックを受けていた。もともとひとりで遊ぶのが好きな子供だったが、その孤独癖はだんだんひどくなっていく。やがて、そんなスティーヴィに何人かの友達ができたようだ。だが、彼の話には腑に落ちないところがあった。だれそれと遊んだといって帰ってくるのだが、家の外で見かけるスティーヴィはいつもひとりだったのだ。その繊細さゆえに、学校でも友達ができず、空想の友達をつくったのか?そのころから、フレッチャー一家のまわりでは、奇妙な出来事がつぎつぎにおこりはじめた…。



この手の話は、アメリカの田舎町抜きには考えられない。
と思ってしまうのは、『BANANA FISH』におけるアッシュの幼少期のエピソードが頭にあるからか。

逆に日本を舞台にして、この話が成立するか考えてみる。
…それはとっても難しそう。
個々のエピソードだけ取り上げれば、日本でも話は作れそうだ。
けれど、その中で動いている登場人物たち。
これは日本に移植できない。



物語は基本的に、一家の父親であるステップ、または母親であるディアンヌの視点で進められていく。
二人ともモルモン教徒である。

その信仰が、
神と人との関係に関する姿勢が、
所属する教会への帰属意識が、
すべての意思決定、
すべての行動に入り込んでいる。

彼らの心の中心には、
常に神が存在しており、
それが倫理観の柱となっている。

がちがちの信者というわけではない。
けれどその信仰心は、
彼らの身体における血や肉や骨と同じほどに、
彼らの心の根幹を占めているのである。

そして息子であるスティーヴィにも、それは受け継がれている。
まだ8歳なのに。



日本では…すくなくとも一般的な日本人の場合には…そこまで自身と一体化している信仰を持っている人はいないと思う。
持たせてしまったら、「一般的な」人物としての造形にはならない。
だがこの物語においては、ステップもディアンヌも「普通の」人なのだ。

そしてこの物語の結末もまた然り。
日本におけるクリスマスは商業主義以外の何物でもないが、
欧米では「特別な日」としての力がまだ何かしら残っている気がする。

これは一つのクリスマス・ストーリーなのだ。

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