2013年1月31日木曜日

レ・ミゼラブル

遅まきながら観て来ました。

これは確かに皆さん言うように良いです。
自分が原作を読んだのはもう20年以上も前なのだけど、その時の記憶が映画を見ながらフラッシュバックし、そして(映画の中ではまだ起きていない)その次に起こることをフラッシュフォワードしながら見ていました。

ミュリエル司教がジャン・バルジャンにいう言葉、
ジャヴェルがマドレーヌ氏の正体に気付くきっかけになる場面、
堕ちてゆくファンティーヌ、
コゼットを手放そうとしないテナルディエ夫婦、
お堅く、そして初心なマリユス、
顧みられることのないエポニーヌ、
革命の歌を止めないガブローシュ、
ジャヴェルの最期…

どれもが「そう!そうなんだよ!!」と言いたくなるほどの再現性です。
一般に、小説が映画化されると、少なからずイメージと違う場面というのが出てくるものです。
ところがこの作品には、それが殆どありません。
みごとに原作のイメージ通り。
不思議です。



で、「何故なのか?」を考えました。
結論からいうと、「ダイジェスト版だから」ではないかと。
繋ぎのシーンを殆ど無くし、「何か」が起こるその場面のみに注力しているため、印象にブレが出にくいのだと思います。
そして「歌であること」も大きいです。
場面の説明よりも登場人物の想い…それが優先されます。

たとえばファンティーヌ。
なぜいきなり死にそうになっているのか?
たとえばジャヴェル。
彼は橋の上で何を想っていたのか?
たとえばジャンバルジャン。
コゼットたちの前から姿を消して間もないはずなのに、何故こんなにも弱っているのか?

省略され、話が跳んでいるところは色々あります。
でもそれは気にならない。
本当に何も売るものが無くなっても(身体を売ることさえできなくなっても)、それでもコゼットを想うファンティーヌとか。
夜明けの橋の上に佇むジャヴェルとか。
最期のその時に、コゼットに会うことができたジャンバルジャンとか。
それが見られればそれだけでいいのです。

中心となる場面の映像 + (歌によって伝えられる)想い。
端的に言ってしまえば、この映画にあるのは「それだけ」です。
でも「それだけ」しか無いからこそ、「イメージと違う」作品にならずに済んでいる…そういうことなのだと思いました。



ちなみに自分が昔読んだのは、岩波文庫版全4冊(訳:豊島 与志雄)です。
でもこれ、今は全部無料で読めるみたい。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001094/card42604.html
パソコンやスマホなら閲覧用ソフトも無料で手に入りますし、興味を持った方は是非どうぞ。

岩波文庫版だと本国で出版された時の木版画多数も一緒に楽しめますが、青空文庫版だと挿絵は入っていないかもしれません。
その場合は↓がおすすめです。
その本とは『「レ・ミゼラブル」百六景』。
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なぜジャン・ヴァルジャンは、パリのその街区に身を隠したのか?里親から虐待を受けるコゼットが、夜店で見ていた人形はどこ製か?19世紀の美麗な木版画230葉を106シーンに分け、骨太なストーリーラインと、微に入り細を穿った解説で、“みじめな人々”の物語をあざやかに甦らす。長大な傑作の全貌がこれ一冊でわかる。
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自分は昔出たハードカバーで読みました。
今は文庫本やkindle版で手に入るようです。
味のある木版画を眺めるも良し、解説を読んで記憶を新たにするも良し。
一押し本です。

レ・ミゼラブル 全4冊 (岩波文庫) 「レ・ミゼラブル」百六景〈新装版〉 (文春文庫)

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